人間は、精神や肉体に関わらず、ショック受けたものは奥底にしまいこまれる。
それは虚の歪みとなり、ストレスがそれを奥の方へ追いやる。しまいこまれた歪みが、人々の心身を病ます。
この療法は、誠に仏教の真意に基づいており、真心からの利他心と型の習得を要する。まさに東洋医学の大いなる円の、その一部の輝く弧であろうという心がなければ、到達できない。自我を消す、というよりは引きぬく、空じる。
先生、ありがとうございました。
切診中は、薬師如来をイメージし、永遠なる生命の道、タオを感じておりました。 お陰様で、産まれる前後に肉体的に受けたショックが表面化して、軽くなりました。
これからは、門徒として学び、修行しよう。 西洋的な絶え間ない分裂、リニアーな論理、二項、相反したものや身心を一如としよう。 不完全でフラジャイルな存在として、治癒者であろう。
言葉だけでは到達などできない。むしろ、言葉の不完全さを引き入れて体感として超越しなければならない。
最後に、 ユーモアあふれる氏から頂戴したことば、
「お前の口をついて出る言葉がお前を生かすのだ、お前の口をついて出る言葉がお前を殺すのだ」 ボブマーリー
最近合う同年代の人がほぼ全員(特に男性)、とりあえずお金(小金)を稼いでから、
親や恋人家族そしてなにより自分が安心・安定してから、人脈や技術を使って世のためになることをする。
なんて、それ以外に道はないかのように嘯く。
その理由は2つにまとめられる。
1:生活・人生=いかにお金を稼ぐかという、幻想
2:せめて人並みかそれ以上の暮らしをしたい、見せたい
以上の、他人の価値観の中で生きている。(自分もだが笑)
これは、「お金さえあれば、具体的に目に見える形で他の人々と助けあうことなく生きれるから」
そして、ごく一部の欧米の富裕層(大金もち)が甘汁を吸い、
庶民は他者との気の交流がなく、内向し、孤立不安を常にもち、それを怖れ、
空気を読もうと金融資本主義のなかで盲目的放浪をする。消費、暴飲暴食、旅行・・・
全ては人から観た自分のため、主体と客体の分離。
ただ、もし生命や存在の根源とは変化と動的平衡であるならば、
武家社会が始まる以前の流れである、
競争や絶対的イデオロギーではなく
矛盾を内包した宇宙他者との同一性(まあ魂や精神の充実とも言える)
を求める流れが今後の時代にくるかもしれない。という予感。
”主体と客体は一つのものである。それらの境界が、物理社会の最近の成果で壊れたということではない。なぜなら、そんな境界などもともと存在しないからだ” シュレーディンガー
だいたい単行本見開き1ページ(2p相当)読むのに、1分位か。
つまり700~800文字で1分。これを30秒まで縮めるのを一種の練習目標とす。
そうすると、アウトプットも含めて平均的単行本1册、2時間で読める。
1日、ハードカバー2册が可能になる。というエクササイズ
この空白のページに書きこむ、というより打ち込むとき、
何をか書こうとしている自分と、それを見ている自分と、書くことを躊躇する自分と。
今日からマーキングを2色にしてみる。変化が生命や情報のありかた
変化=生命、とかくとなんだか本質をついているのかいないのか分からなくなる。
具体性を持って、鳥の目で、並行思索をす
その日、一日あったことを振り返ると5分程度でまとめられる。
それを毎晩やる。基本寝ない。
現在認識している五感情報を、できるだけ多く同時並行的に自己編集する。連想、要約する。
と同時にその自己編集の様子を観察する。
自分に足りないのは、微視力。部分を徹底的に編集する。具体的な体感、生の情報。3年こちらだけを鍛える。
俯瞰力はかなりある。これは放っておく。これはこれで機能を果たす場面があるだろう。
コミュ二ケーションの中で、5つの代表的な型、地と図、3M(Message:Media:Method)2+1,カーソルの変化、関係性や視点、を意識する。
情報の内容や中身(編集されたもの)ではなく、その形や方法(どのように編集されたか)に注意のカーソルを動かす。
そこには「型」がある。
言わば、情報には図と地があり、地を意識するもしくは先に置くことで、図を言い換える、読み替える、書き変えてみるとよい。
例えばコップという図の情報。台所という地であるなら、「日用品」「生活品」「生活必需品」「洗われるもの」「口が添えられるもの」・・・というふうに連想していく。
人間はこうした編集をいかなる場面でも行っている。脳は自己編集装置。それが外部と相互に関与する。自己と相手のエディティングモデルを対比、比較、関係、交換している。
常に、型、支店、ツール、場、関係性を変化させ続けなければならない。
なにより、型が意味を先行する。意味があってからの型ではない。概念・全体よりディテールがものをいうのだ。
赤塚不二夫 「天才バカボン」
あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、
また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち、「これでいいのだ」と。
平成20年8月7日 弔辞 森田一義
3度目の切診
一巡した後、首、カンゾウ、へその下、脚を中心に。
背骨及び健康骨に痛み、くるぶしの下に全ての中で一番のいたみ。
初回の右肩甲骨、二回目の太もも横の激しい痛み響きは落ち着いたか。
脚に毒素邪気がたまり、血流及び発育を妨げている。
とにかく、虚のシコリ・邪気を取り除く。
自分の責任において、自分を主張すること。己をつらぬくこと。
猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって、全身全霊をかけて自分の夢にむかって挑む。
自身に対して強烈な自己批判力をもち、ほんとうのことだけを視つめ話す。
自由や謙遜とは、他人の価値観や常識から完全に解き放たれ、自分のみを由り所とすること。
自分を特別だと思わない、所詮平凡すぎる平凡な存在であるのだから、
才覚者ではないとコンプレックスで落ち込むこともなく、
非凡だとおごることもない。
平凡な人間にできることは、瞬間瞬間を真面目に戦うことだけ。
結果がうまくいこうがまずくなろうが構わない、
格好良く生きようなんてうそぶかずに、猛烈に生きる。
才能や能力なんてなければなおいい、
そんなモノを超えた決意の凄みをみせてやる。
常識的で批判を受けない様な楽な生き方、選択なんぞくそくらえだ。
自分の信じていること、正しい美しいと思うことに、
わきめもふらず突き進むだけだ。
本来生は無目的、無条件であるべきで、
死ぬのも生きるのもよし、ただ瞬間にベストをつくすだけだ。
2日目
前回より表面的な痛み及び響き。
両足の生まれつきな弱さ、気の滞り。特に左足。
背骨右脇の腰から、足首、小指にかけての響き。
今後の瞑眩に期待。